生きろ、日本
そもそも「はてな匿名ダイアリー」に書かれたぼやきが、国会にまで持ち込まれ、流行語大賞なるものにノミネートされて、さらに年末にその言葉遣いがポリコレやらヘイトだのと言われるなんて、あのとき誰が思っただろうか。
「保育園落ちた」からの「日本死ね」っていうあたり、キャッチーである。
保育園という身近なモノから大きすぎて抽象的概念とも言える「日本」にまで広げて、生死の別があるのか定かではないその「日本」に向かって「死ね」と言うビッグバン的拡大。
「自殺する若者が増えている」から「傘が無い」へと矮小化した井上陽水の時代から、ああなるほど21世紀とはそういうことか、いつかノーベル賞でも貰うつもりで頑張ってるんじゃないのか、などと思わせる展開。
「何なんだよ日本」と書き手は問いかける。
いや、君が問いかけるのは、もっと身近な誰かなんじゃないのか。でも、書き手は「日本」に問いかける。「一億層活躍社会じゃねーのかよ」と問いかける。そうです。一億層活躍社会です。そういう返事など期待してない。でも問いかける。
保育園に落ちた事実を述べた後、「どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか」と来る。「私」が「活躍出来ない」ことを悔しがっている。決して、子供を預けられないため働きに出られず、収入が増えないというような愚痴をこぼしているのではない。
この「どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか」が、意外と良い。とっても良い。気に入ってます。
なんたって「活躍出来ない」ということを悔しがっているんだ。えらい。
一国の首相が、国民の皆さん、今こそ全国民が活躍してください、一億総火の玉だ、あなたの活躍期待していますよ、と言ってるのに、活躍出来ないのである。こんな悔しいことは無い。お国のために働けないのである。ひざに矢を受けてしまったわけでもないのに。
「どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか」
悲痛な叫びである。好きです。こっちに流行語大賞をあげたい。
「オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ」からは、はあ、まあ、いちいちごもっとも。ホント、少子化対策とかなにやってんだよ、成果出てませんけどー。お詫びのしるしに、担当者は一人あたり2万人くらい子供作れよ。どうなんだよ。そう思います。
書き手は心の中身をぶちまけているのだ、正直に。
「取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ」
「不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ」
書き手は、具体策も書いてみた。でも、よくなってる様子は無い。たぶん、この書き手が子育てを終える頃には、少しは事態が動くかもしれない。おそらく、それまでこの書き手の中の怒りのエネルギーは続くまい。いや、もうエネルギー切れしてるだろう。
ただ、新しい「日本死ね」はどこからか生まれてきて、どこかに怒りがぶつけられるのだろうなあ。死ね死ね団になるのだろうなあ。
ところで、一般的に「死ね」とは忌避される言葉遣いではあろうが、絶対に使えない、あるいは使わせないというものでもなく。「死ね」という言葉を排除したところで、人間が不老不死になるわけでもなし。
なんたって、ある時期世の中を席巻したのだから、流行語大賞にノミネートされたっていいじゃん。それとも、大賞なんてものは、どこかの大手プロダクションに一億円払って貰うものなので、実際に流行したかどうかなんて関係ない、「日本死ね」は裏工作があるに違いない、なんて思ってたりするのだろうか。
中には、「日本死ね」がオッケーなら「韓国死ね」もオッケーなのかよ、とかいう人がいますが、誰が何に向かって「死ね」と発するかというのがポイントだと思うので、それはちょっと違うだろうよと。
自らを呪う。
「日本」に住んでいて、「日本」のために活躍したくて、でも「日本」が活躍させてくれない。だけど、そんな「日本」を作ってしまったのは「私」であって、「私」の集合体が「日本」だ。
「日本死ね」は自身を呪う言葉なのだ。
決して他所の国を呪ってるわけでもない。ほんとに滅べばよいとも思ってない。嫌いだから「死ね」って言ってるわけじゃない。好きだからー。
昨日までの君は死にました。おめでとう。おめでとう。
と歌いました。
いつか死ななくてよい日本になると良いですね。
生きろ、日本。